友達って
なんですか?
って不意に聞かれて、とっさに「信用出来る人」って答えた。
あとから考えると、なんか違う気がするので、ちゃんと考えてみる。
これだって答えは無いと思うので、こういう人は友達って例を上げてみる。
・休日に一緒に遊ぶ。
・自分の生い立ちや過去のことを話せる。
そんなに出てこないな。
そもそも、僕は友達少ないからな。
この2つを掘り下げてみよう。
まず、1つめ。
休日に一緒に遊ぶってことは、お互い一緒にいたいと思わないと成立しない。
やはりその人の人となりが好きなり、フィーリングが合うなりしないとそう思わないだろう。
そこの基準は人それぞれ違うと思う。
じゃあ、僕はどうだろう?
まあ上記の通り、人となりが好き、もしくはフィーリングが合うことか。
じゃあ、僕はどういう人が好きなんだ?
それはまた今度にしよう。
2つめ。
自分の生い立ちや過去のことを話せる、ってことは「自分のことを知ってほしい」と思っているからなのだろう。
つまり「自分のことを知ってほしい」と思う人は友達なんだろう。
なんか整理してみて分かったが、
僕の友達の定義のハードルが高いから友達が少ないのかな。
そもそも、僕はあまり人を好きにならないし。。。
なんか気持ちが暗くなりそうなので、
このへんで。
なぜ人を殺してはいけないのか?
って考えてたらラビリンスに迷い込んだので、
ちょっと整理する。
今まで、自分は最低の人間だと思ってた。
だから、最低な自分が他人様を殺すなんて
恐れ多いと考えていた。
けど、自分もそこまで悪くないな
って思えるようになった。
それ自体はいいことだと思う。
そしたら、自分よりできない人は殺していいのか
って話になる。
そんな単純じゃないよね。
じゃあ、最初の考え方から変えなくちゃいけない。
「変える」って言うより、「もう少し深く考える」かな。
人はどんな時に人を殺すのか?
簡単に羅列してみる。
①強い憎悪を感じた時
②強い使命感を感じた時
③世界を正しく認識できなかった時
④その他
①はニュースでよく聞くやつ。
②は宗教や仕事?
③は精神に異常をきたしたとき。
④は事故とか正当防衛とか。
もともと僕の考え方は、
相手の考え方を尊重することがベースにあるので、
基本的に人を殺すことを良しとはしない。
だって殺すと相手の考えも消えちゃうから。
じゃあ僕が人を殺す可能性があるのは上記で言うと
①だろう。
②は僕の考えからずれるので、ありえない。
③④は、そうならないように準備するしかない。
なってしまったらしょうがないと考えるしか無い。
その場合は罪は償う。(③の場合、償えないかも。。。)
では①は?
たぶん、大切な人が侮辱されたり殺されたりしたら、
憎悪は募る。
相手を殺したいと考えるだろう。
今のように考えがまとまっていなければ、
よくわからないままに、感情のままに相手を殺すかもしれない。
では憎悪で人を殺してはいけないのか?
憎しみは繰り返すとよく言われる。
仕返しをすれば、仕返しの仕返しをされる。
そういう意味ではダメなんだろう。
仕返しの仕返しでまた大切な人が傷ついたら、
俺はどうしたら良いかわからなくなる。
じゃあ、受けた憎悪はどうしたらいいのか?
人を殺したくなるほどの憎悪だから、
簡単には消えない。
相手を憎んではいけないなら・・・
相手が大切な人を傷つけた理由・原因を憎めばいい。
そしてその憎しみのエネルギーを
同じことが起こらないようにすることに注げばいい。
そんなことできんのかな。。。
こればかりは、なってみないとわからんな。
考え方の整理とこれから
今までどういう経緯でどのような考え方に至っているか
記録するため、記載する。
また今後どのような考え方を持ちたいか
整理するため、記載する。
★発端
小学5,6年の時に「器の大きい人間になりたい」と思った。
なぜそう思ったかはわからない。
ただ、強くそう思ったことだけは覚えている。
★過去
それから「器が大きい」=「なんでも受け入れる」ことだと思い、
大学まで過ごしたが、社会人になってからわかった。
「器が大きい」=「なんでも受け入れる」ではないことを。
ずっと相手の言うことを受け入れてきたため、
僕には自分の意見というものがなかった。
そうすると社会人として、自分の価値が無いことを気づいた。
僕は上司の言うとおりに仕事をした。
上司の言うことを行った。
それは機械でも出来る仕事だと気づいた。
自分は何も価値を生み出していない。
結構悩んで、精神バランスを崩したこともある。
ここがひとつの転機だった。
悩んだ結果、自分が「器」を作っていないことを知った。
「器の大きい人間になりたい」と思っていたが、
器だと思っていたところはただの地面だった。
地面に水が流れているのを見ているだけだった。
★今
今、器を作っているところだ。
まず器を作って大きくして行かなければならない。
そこでどのような器を作っているか、考えているところだ。
イメージしているものはある。
段階的な器だ。
まずはすべてを受け入れる器があり、
その中に大切な人だけが入る器があるようなものだ。
ただ、ここに矛盾が生じている。
「すべてを受け入れる器」なんて存在しない。
これを解消する回答を探している。
★未来
上の矛盾の解はひとつしか無いことは気づいている。
「すべてを受け入れる器」は諦めて、
「できるだけ大きな器」にすること。
そうすると今見えている目標はこれになる。
大切な人が入る器は無理に大きくしなくてもいいが、
最初の器を可能な限り無限に大きくすること。
できんのかい?
絶望・運命に立ち向かうと決めたんだ。
できるできないでなく、やるやらない。
なら、やりましょう。
恩返しの気持ちを形にすること
「そろそろ、心にしまいこんだ言葉達を聞かせて欲しいよ」
という歌詞を聞いて、ブログを書こうと思った。
『亀の恩返し2013』という「恩返し」をテーマにしたライブに行った。
とても心温かくなるライブで感動した。
このライブで感じたこと・思ったことを忘れないようにするには何をしたらいいか考えた結果、「カタチあるものを残そう」と思ってブログを書いていこうと思う。
「恩返し」って今まであまり意識せずに生きてきた。
もちろん世話になった方に助けを求められたら助けに行くし、
よくやってくれたと思ったら飯でもおごる。
ただ、そうやってその一瞬一瞬のお礼はするが、
家族や友達、仕事仲間など日頃お世話になっている人へのお礼というのは、
なかなか形にしていなかった。
なぜだろう?
いつでもできると考えているから?
恥ずかしいから?
めんどくさいから?
すべて当てはまる気がする。。。
けど、これを解消する方法があった。
「母の日」や「父の日」等の祝日、または年賀状や暑中見舞い等の挨拶だ。
「いつ」というのはこれらを利用すれば解消できるし、恥ずかしさも紛れる。
(それでも恥ずかしさは残るかも。。けどやった結果お互い温かい気持ちになるはず。)
あ、「めんどくさい」だけ解消できてないな。
けど、やりようによってはめんどくささも最小にできる。
最近『死』というものを近くで感じたので、今までとは違い、節目節目の祝日や挨拶は大事にしようと思った。
次は「父の日」。
何をしようか。